新・じゃのめ見聞録  No.1

   黙祷とは何をすることなのか

2011.5.1


東日本大震災のあと、各地の行事でしばしば「黙祷」をしている光景が見られる。会議やちょっとした集まりの場でも、「黙祷」をする光景が見られるようになった。「黙祷」とは不思議な光景である。

子どもたちも「黙祷」をする(させられる?)時がある。その時の子どもたちは目をつぶっている。黙祷とは目をつぶることだと思っているからだ。子どもた ちは時々薄目を開けて隣を見、みんなが目をつぶっていると慌てて自分もまた目をつぶる。先生が「ハイ」というと、ほっとして目を開ける。

では先生たちはそういう「黙祷」の時に、どんなことをしているのか。目を閉じているだけの先生はいるのだろうか。心の中で「お祈り」をしている先生はい るのだろうか。でも、黙祷の時に何をしているのか、というようなことを人にたずねたことはないし、自分でも人にこんなことをしていると言ったこともない。 だから子どもたちも、他の人は「黙祷」のときに何をしているのかよくわからないままに、目をつぶっているのだろう。

誰かが亡くなったときの葬儀場では、その遺影を前にして誰もが目をつぶり礼をする。その時の黙礼には、「礼」をする「相手」がそこにいて、具体的にその 人に向けて「頭を下げている」ということがある。そういう意味では、今回の東日本大震災を前にして「黙祷」をするというのは、具体的にニュースで見たさま ざまな悲惨な情景を思い浮かべながら、こういう光景に「哀悼の意」を捧げることになっている。

おそらく戦没慰霊祭とか事故の慰霊祭というような場で「黙祷」をするのも、そこで向かい合う具体的な「情景」があるだろう。

しかしそういう具体的に向き合うものがない状況で「黙祷」が求められるときがある。たとえば会合や会議の前などに「黙祷」をしましょうというようなと き、人はそこでどんなことをしているのだろうか。考えられることの一つは、荒ぶる心を静めて、冷静な判断が出来るようにするというような実利的な努力であ る。ある意味での「無我」の心境を求める「坐禅」や、「ヨガの瞑想」のような「心の静けさ」を求める努力に近いものである。

でももし、「黙祷」が、「心の静けさ」を求めるようなものだとすると、大震災の悲惨な光景を思う浮かべて一分間の黙祷をするという姿と重ならなくなってくる。

『広辞苑第6版』の「黙祷」という項目には、たった一行「無言のまま、心の中で祈祷すること。」というよくわからない説明が書いてある。

おそらく「黙祷」という言葉で、人々はそれぞれにさまざまなイメージを持ってきているのだが、大きく分けると、ミレーの『晩鐘』に描かれた農夫の「祈 り」のようなイメージと、禅の「瞑想」のようなイメージと、死者を弔う「哀悼の意」のようなイメージと、いうことになるのかもしれない。東日本大震災を想っての「黙祷」ということになると、この「哀悼」ということになるだろうか。「哀悼」とは、「人の死を悲しみいたむこと」『広辞苑第6版』されているが、白川静は「弔い」という言葉について、それは「とぶらう」という古語からきていて、「問い訪ねる」ことだと説明していた(『字訓』)。「弔い」には、 だから「悲しむ」だけではなく、思いを果たせずに亡くなった人の無念な思いを問い訪ねて、後に続く自分たちの成すべき事を改めて問いかけるということが含まれている。

とすれば、そういう意味での「黙祷」には、それぞれの立場で「訪ねる」場をもつことになるのかもしれない。

しかし、そういうことをひっくるめて考えると、小学生のするような「黙祷」、つまりただ「黙って目をつぶって下を向く」というような「黙祷」には意味がないようにみなされるかもしれない。でも、わたしはそういうふうには思わない。戦没者の慰霊から、今回の被災地の惨状を前にして、子どもや一市民から、あるいは天皇や各国の首脳たちまでもが、等しく「黙って目をつぶって下を向く」ということをまずしないとはじまらないものがあるというのは、とても大事なこ となのだとわたしは感じるからだ。それを「礼」と呼べばいいのかわからないが、そういう人類共通の「礼をする形」つまり「黙祷」という姿勢には、なにかしら説明のできない、人類の偉大な発明品としか言えないようなものがあるような気がしている。